歴女でおなじみのパーソナリティー・垣内なおみがお送りする「みんなで!ワクワク歴史(ヒストリー)」。
タッキーBOX火曜日、不定期月イチ午後4時30分から、かなりマニアックな歴史トークを繰り広げています。
今回は、先月に引き続きゲストに箕面観光ボランティアガイド・内本友次(うちもと・ともじ)さんをお迎えし、赤穂浪士と深い関わりのある箕面出身の武士・萱野三平についてのお話をうかがいました。
箕面の方にとっては耳慣れた名前でもある萱野三平ですが、実際はどのような人だったのでしょうか?
萱野三平は萱野家の三男に生まれ、赤穂藩に仕官します。
藩では俳諧が盛んで、江戸屋敷詰めの三平は、俳諧の師・水間沾徳(みずま・せんとく)に弟子入りしました。
三平の俳号は、涓泉(けんせん)。中国の六朝時代に書かれた帰去来という本の中から取っているそうです。
また、主君の身近なお世話をする人のことを「涓人」といい、三平の役職・中小姓がまさにそういった仕事だったことも由来の一つだそうです。
浅野内匠頭の刃傷沙汰から藩が取り潰され、報復の討ち入りを果たしたのが赤穂浪士たちです。
三平ももちろん加わりたかったでしょうが、三平の父は吉良と親しい大島家に仕えていました。
当時は朱子学が中心の世の中で、そこでは「主君は絶対であり、親は必ず従うもの」とされていました。
主君に殉じれば親が迷惑し、親に従えば忠義に背くことになる・・・。
そんな板挟みの末、三平は自ら死を選びます。
自決の前夜、父や姉と話した後に長屋門の自室に帰った三平。朝起きてこないので家人が見に行くと、三平は東を向いて自決していました。
萱野家の建物は、明治時代に取り壊されました。
その際、長屋門と塀の一部を残そうという運動が起こり、現在は萱野三平記念館「涓泉亭」として整備されています。
なお、母屋の方は伊丹に移築され、一般の住宅となっているそうです。
「現代の常識では、萱野三平の自決は考えられないことですが、当時の教養では疑問を持たれなかったんです」
俳人としても非凡だったという三平が、辿らざるを得なかった悲しい運命。
辞世の句「晴れゆくや日頃こころの花曇り」が、三平の心境を表しているようです。

