左手のピアニスト・智内威雄さん@エール・マガジン

2019/11/30

erumaga_191130-1ガンバッテイル皆さんを応援する土曜日の「エール・マガジン」(14:15 on air)!
11月30日の放送は、左手のピアニスト・智内威雄さんをゲストにお迎えしました。

左手のピアノとは、けがなどの理由で右手が使えなくなったピアニストのために作られた曲と演奏法のことで、300年ほどの歴史があります。バッハの息子やブラームスが作品を残しており、第一次世界大戦での負傷兵の急増によって、それは一大ブームを迎えました。

埼玉出身の智内さんが、ピアノを始めたのは3歳のとき。
両親が音楽家だったこともあり、幼少の頃から英才教育を施されてきました。
小学生の頃は、ピアノが誰よりも上手なので女の子にももてるようになり「ハートに火がついた(笑)」。
演奏を人に喜んでもらえる。その楽しさを知り、俄然練習にも熱が入るようになりました。
中学生になったある日、智内少年はヤンキー少年たちに体育館に呼び出されます。
まさか、ヤキ・・・?
恐る恐る行ってみると、彼らのリクエストは「ピアノを弾いてくれ」。
体育館で、ヤンキー少年たちのために昼のコンサートをする羽目になりました。
一生懸命演奏すると
「いやー、今のバッハいいよ」
ショパンです(笑)。
校内でもサングラス、髪形もすごい彼らでしたが、音楽への素直な憧れ、演奏者を尊敬する気持ちがありました。
おかげで中学時代は、彼らに何かと助けてもらえたそうです。

その後、音楽専門の高校へ特待生として入学。
そこには音楽の図書館があり、資料や音源がいっぱいあったことから、智内さんは入り浸るようになります。
あまりにのめり込み過ぎたため、授業の方がちょっとおろそかになり、特待生も取り消しになってしまいました。
高校卒業後は、ドイツのハノーファー音楽大学へ。
学生がみんなコンクールに出場するような大学で、智内さんも国際コンクールで入賞するようになっていきます。
そんな智内さんを襲ったのが「局所性ジストニア」という病気でした。
「手を握る時は、内側の腱が引っ張りますよね。開くときは外側の腱が引っ張ります。その両側が引っ張って硬直するのがジストニアの症状なんです」
症状が出た時は、無理をしないことが肝要だといいます。
当時、たくさんのコンクールに出場していた智内さんは、無理に練習を続けたため、急速に症状が悪化。たった3週間で、ドレミファソラシドも弾けなくなりました。
最悪のタイミングで訪れた逆境ですが、幼少からの英才教育で「壁を乗り越えるのには慣れている」。
メラメラ燃え上がる闘志で、リハビリに打ち込みます。
その結果、日常生活には支障がない程度に回復しましたが、本当に元通り弾けるまでには至りませんでした。
そこで本当にがっくり落ち込んだ智内さん。「あしたのジョー」最終話のように、真っ白に燃え尽きていました。

「病気は、勝つものではない。受け入れるものなんです」
ジストニアは完治しておらず 今でも右手が硬直することがあるそうです。

救いの手は、かつての恩師から渡された左手のピアノの楽譜でした。
恩師も以前、腱鞘炎により一時、左手のピアノに取り組んだことがありました。
久しぶりにピアノに触れ、弾く喜び、人を喜ばせる楽しさという自分の原点を思い出した智内さん。
新たな分野への道が開けました。
左手のピアノについては、それまで上級者向けの譜面しかありませんでした。
右手が使えない子どもたちや初心者で、ピアノが弾きたいという要望を知った智内さんは「入門、初級、中級を作ろう」と思い立ち、左手のピアノの裾野を広げる活動を展開していきます。
智内さんの声掛けで、国際コンクールも開催。
12月4日(水曜日)には、兵庫県立芸術文化センターで、コンクール受賞者を迎えてのコンサートも。
「競い合える存在が欲しかった」という智内さんの念願が叶い、左手のピアノはこれからさらなる発展を見せて行きそうです。
今後予定されている国際コンクール第2回では、新部門も設立されることになっています。
「いずれは無形文化遺産に。自分の代でできなくても、次の世代に受け継いで達成したいですね」
左手が紡ぎだす音楽の、新たな可能性。
これからも目が、そして耳が離せません!

左手のピアニスト・智内威雄 公式サイト