『しあわせの道しるべ』(30分番組)
第2日曜 15:30〜
(再放送:同日夜22:30〜、翌月曜15:30〜)
誰にでもある人生のターニングポイント。
そのとき、何を感じ、どう選択していったのか。
フリーライター・コーディネーター 中村のりこが、
公私で出会う素敵な方々を毎月ゲストにお迎えして、
その方の人生の転機についてお話を伺っていく対談番組です。
大きな波を起こすものではないけれど、
ラジオを聞く人の心に、小さな道標ができる。
そんな番組をめざしています。
今回のゲストは・・・
看護師・介護支援専門員 塚本知恵子さん
<塚本知恵子さん プロフィール>
昭和62年 兵庫医科大学病院 脳外科・ペインクリニック病棟勤務
平成5年 淀川キリスト教病院 脳外科・形成外科・内科病棟 師長
平成15年 大阪府池田市 居宅支援事業所にケアマネジャーとして勤務。
湯川胃腸病院 副看護部長、伊丹恒生脳神経外科病院 看護部長を歴任した。
平成26年〜平成30年 大阪府池田市の市立池田病院 地域医療連携室に退院支援看護師として勤務。
平成30年1月〜 一般社団法人日本地域統合人材育成機構(ジェイリード) 部長
平成31年4月〜 六心会 伊丹恒生脳神経外科病院 地域医療連携室室長就任。
塚本知恵子さんnote https://note.com/chiens
多才な略歴をご紹介します。
脳外科領域の看護師として長く看護師を務めて来られました。
31歳に師長となり、その後も看護部長などを歴任し、看護管理を通して、患者のための看護アプローチ、病院職員の接遇教育に専念されてきました。
ケアマネジャー・公立病院の地域連携室で、医療と在宅をつなぐ仕事の中、がん患者・高齢者との関わりの中、チームでその人らしい人生のための支援をするために邁進してきた知恵子さん。
経験を生かして、人材育成会社において、地域連携やマナー、コミュニケーションの教育の展開を講師、e-learningの監修、白熱道場の運営をしつつ、病院の看護部門の教育顧問を複数担当し、看護の視点の強化とともに、働くことの喜び、自分の価値を発見するようなアプローチを行っています。
今年6月、「ご自身の価値を見出すためのファシリテート」をするために、「チエコロジックサロン」としたサロン展開や個人セッションをスタート。
病院の地域連携室という現場にも身を置きながら、しなやかに生きがいを持って生きていくためのヒントを、独自のロジックで展開しています。
平成30年4月からは、現場での活動も合わせて再開。
現在、伊丹恒生脳神経外科病院において地域医療連携室長に就任。
院内で多職種連携を支援しながら、地域のケアマネや看看連携の取り組みも支援しています。
●看護師としてのスタート
看護学校卒業後、兵庫医科病院で脳外科、麻酔科に入った知恵子さん。すぐにそのリーダーシップと細かな点まで目が行き届く働きぶりを発揮し、スタッフ向けの看護マニュアルを作ったり、スムーズな看護が行えるよう、現場を整えて行きました。
当時の脳外科では、脳腫瘍の患者さんは意識がなくなる方も多く、意識がなくなると緩和ケアの対象ではないとされていた時代。患者さんの尊厳という意識も今ほどなかったのだそうです。グリーフケアという言葉もない時代、徹底的に治療する時代でした。
どうにかしたいと感じていた知恵子さんは、緩和ケアについて学びたいと、緩和ケアで有名な淀川キリスト教病院へと転院。看護師となって7年目のことでした。
●緩和ケアのための転職
淀川キリスト教病院では、患者さんを精神的にも色々と支える恩師・先輩方に学んでいきました。ここでも脳外科は緩和ケアの担当外だったため、「患者さんやご家族が困っているのにどうしていいかわからない」と訴え、ついに脳外科も回診されるようになったのでした。
患者さんのためによりよくしたいと猛進していく知恵子さんでしたが、多くの改善を進める中で役職となり、ご結婚。育休明けには、31歳にして師長を任命し現場復帰されたのですから、びっくっり&納得!
いかに知恵子さんの働きが病院現場で必要な方だったかがわかりますね。その後の管理職としてのご活躍は経歴が示すとおり、言うに及びません。
●当時二歳の息子さんが川崎病を発症
師長として看護師、妻、母として多忙な勤務を続けていた頃、ぜんそく気味ではあった息子さんの難病が発覚します。川崎病の治療のため、入院中のときのこと。別れ際にも泣かない息子さんで、担当医には「我慢する子だね」と言われたのだそうです。
「このままずっと我慢させていていいのかな・・・」考えに考えた知恵子さん。
子育ては後悔しても取り返しがつかない!と判断し、しばらく仕事を辞める決意をします。周囲からは「辞めるという選択肢を持たない人」だと思われていたため、その決断に周りの人たちは本当に驚いたそうです。
「人生の選択は自分が決めないと行けない」大きな人生の転機となりました。
●ご主人・実母の闘病
仕事を辞めた直後。それを待っていたかのようにご主人が十二指腸潰瘍で大量吐血。また、お母様も肺がんからの脳転移で余命宣告を受け、娘として、医療職として、心が大きく振り子のように揺れた時期でした。お母様の存在は大きく、「7年間は母のことが頭から離れませんでした」と話す知恵子さん。
知恵子さんも我慢する、自分のことよりも周囲のことに邁進するタイプだと感じます。
●ご主人のひとことがその後を変えた
「実はもっと日常のことで、ふと主人が言ったひとことが、大きな人生観の転機となったのです」
家族で出かけた日曜日。お昼ご飯は外食。「夕飯を手作りで作らなければ!」「昼も外食、夜も外食なんて、あかんあかん!」勝手に「こうあるべき」「こうがんばるべき」と決めつけていた知恵子さんに、ご主人がひとこと。
「普段がんばってるのに、なんで日曜くらいゆっくり休まないの?充分やってるやん」
その一言のあと、帰宅するまで号泣したそうです。
「私は何にこだわっていたのかな・・・」
「家族のために休みは手料理を!等とがんばってきたけれど、本当に寄り添ったら、家族は買ってきたものでも、家族団らんで過ごす時間の方が嬉しかったかもしれないし、がんばるところを間違っていたなと気付いたんです」
どこか大きな荷物を自分に背負わせていたのかも知れませんね。
それからの取り組みにも大きく影響があった転機となりました。
今のロジックを身につけるきっかけとなったのが、生徒として、「一般社団法人日本地域統合人材育成機構(ジェイリード)白熱道場3期生」として参加したことだったと振り返ります。
その理論や方法を学ぶ中で、目の前の事象を分析し、システムデザイン思考、コンテキスト分析などを利用して、コロナ渦の医療現場で、一晩で電話診療システムを構築したのだとか。「NOTカリスマ」でいいという、講師としての考え方もここで学んだことでした。これもまた、知恵子さんにとってのひとつの転機だったのではないでしょうか。
●「チエコロジックサロン」開催
2020年6月。今まで知恵子さんが身につけてきたスキルやロジックを、同じように悩んできた医療者の方々に手渡したいと、少人数サロン「チエコロジックサロン」をスタートされました(現在はオンラインで実施中)。
目の前の課題に悩んだら、サロンに参加することで何かの転機やヒントになるかも知れませんね。
波瀾万丈の中で、ひとつひとつの転機を自分のものとしてきた塚本知恵子さん。
多くの後進育成のためにも、チエコロジックを広めていってくださいね。
【塚本知恵子さんからの“道しるべ”メッセージ】
自粛生活の中で、新しい価値観を見いだされてる方も多いと思います。
その中でよく「ポジティブに生きていきましょう」という言葉を口にしますが、実はこれは難しいことだったりします。
この対局にある言葉「ネガティブ・ケイパビリティ(Negative capability)」=グッと我慢すること。実はこれはスーパーポジティブなことなことではないかと思うのです。
小さな日常に大きなターニングポイントがあって、それを拾い集めていくことで、ぐっと我慢する時を乗り越えられる力にすること。それがポジティブだと考え、世の中のポジティブに振り回されずに、自分のポジティブを探してもらえたらな・・・と思います。
何でもかんでもポジティブに!と考える必要はなく、自分ならではの視点をもつことで、道が開けていくのかも知れませんね。
塚本知恵子さん、ありがとうございました♪
次回の『幸運(しあわせ)の道しるべ』は…
8月9日(日)15:30〜(再放送:同日夜22:30〜、翌月曜15:30〜)
次回もお楽しみに!
(文責:中村のりこ)